何故日本では建物の登記簿が存在するのか。
言い換えれば、何故建物が土地から独立した不動産として取り扱われるようになったのか。私の仕入れたばかりの知識を駆逐して考えてみました。
まず、江戸時代の後期のお話し。
ある研究者の論文に、建物を売買するときには道具屋の介在を必要としたため、建物は動産のような扱いに近かったのではないか、また「家屋敷」という言葉が残っているのは、土地と建物を一体として見ている言葉で、少なくとも当時は建物は土地から独立した不動産とは認識されていなかったのではないかという指摘があります。*1
もし、そのままゆっくりと時が進んでいれば、もしかしたら、日本でも建物は独立した不動産として取り扱われることはなかったのかもしれません。
しかし、ご存じのとおり明治維新で状況はガラリと変わります。
新政府は税の確保のために地券を発行して土地の流通を促し、地租改正をして土地のみを課税の対象としました。
また「地所質入書入規則」を制定して土地の担保設定の公証制度を作り、さらに土地の売買譲渡に関して、地券に代わる公示制度として「土地売買譲渡規則」を制定し、土地の公証制度を整備しました。
一方、建物は課税の対象ではありませんでしたので、政府からは地券に相当するものは発行されず、地租改正が行われたあとも、建物の売買や担保設定のための公示制度は作られませんでした。
しかし、不動産の流通が頻繁になり建物だけの取引も増えたため、京都府など幾つかの府県ではその地方独自の「家券」を発行し、地券と同じような機能を持たせたところもあったようです。
その後、公示制度の不備のため建物に関する紛争が増え、政府は建物の譲渡や担保設定の公示のために「諸建物書入質入並ニ建物売買譲渡規則」を制定して、建物の公証制度を作りました。
このように、土地と建物(と船舶)は異なった公証制度が作られたため、その後わが国の第1号の法律として明治19年に制定された登記法において、土地登記簿と建物登記簿(と船舶登記簿)が作成され、これが不動産登記法に引き継がれました。
こうして、建物は土地から独立した不動産として現在に至っているということらしいです。
結局、明治政府が地租改正をし、課税の対象を土地のみにしたことが、建物を土地から独立した不動産とさせた遠因になったと言えるようです。
このことが、果たして良かったのか悪かったのか、ドイツに建物の登記簿が無いことを知った今、私の悩みの一つになってしまいました。
*1 柴田育子;「土地と地上建物の別個独立」構成の貫徹はいかにして生じたか