思い出の地へ再び
2012.12.22 作成 2012.12.31 更新
去る平成24年12月15日、仙台市の国際交流センターで開かれた東日本大震災報告会に参加してきました。
当日は小雨の降るあいにくの天気で、案内板を持った会員の方も寒そうでした。
1.報告会
岩手県、宮城県、福島県の3つの土地家屋調査士会が開いてくださったこの報告会には、全国各地から400名を超える会員の方々が参加され、九州沖縄からも私を含め20名以上の会員の参加がありました。
報告会の内容は、宮城会の鈴木会長がブログで報告されていますので、既にご存じの方も多いと思います。
そこで、私は参加者の立場から報告会の内容をご報告したいと思います。
第一部では、岩手県、宮城県、福島県の各会の会員の方が、ご自分が被災されたときの体験を報告されました。
最初にお話しをされた岩手会の金会員は、ときには亡くなられた方のことを思い出されたのでしょうか、涙をこらえて絶句されることもあり、地震と津波の恐ろしさが身にしみて伝わってきました。
また、「津波てんでんこ」という言葉にまつわる話で、津波がやってきたときの奥様とのやり取りをユーモアを交えて話されましたが、そのときの状況を想像すると津波は本当に怖いものだと思いました。
次にお話しをされた宮城会の高野会員は、家が津波に遭い、偶然その光景を撮影したビデオが動画サイトにアップされていたということで、会場でその動画を上映されました。
凄まじいばかりの光景です。
また、福島会の坂本会員は、福島原発の近くに事務所を構えておられて被災され、原発事故のため元の事務所には戻れず、現在はいわき市の仮事務所で仕事をされているとのことでした。坂本会員のお話で、福島の会員の方々は、岩手や宮城の会員の方々とはまた違ったご苦労をされていることがよくわかりました。
報告会の後で開かれた懇親会の席で、坂本会員からこの前久しぶりにオンライン申請をしましたとお聞きしたとき、私はもっとオンライン申請をしてくださいと申し上げてしまいましたが、「今まではしたくてもできる環境ではなかった。やっと再びできるようになった。」ということに気がつき、原発事故の影響が今も続いていることを知らされました。
そして、今後もずっと続いていくのでしょう。
第二部は、震災と向き合い土地家屋調査士として関わっていく業務についてのお話しでした。
ブログで鈴木会長も書かれているように、短い時間でしたので突っ込んだお話を聞くことができなかったのが残念でした。
第三部でお話しをされた山野目先生は福島のご出身とのことで、今回は学者の目だけではなく、一東北人としての目でコメントをしていただきました。
お話しの内容は、津波で半壊した建物の滅失に関するものや、海面よりも低くなった土地の登記上の取り扱いなど多岐に渡るもので、いろいろ考えさせられる内容でしたが、その言葉の端々に暖かいものが溢れているお話しでした。
そうそう、報告会の途中で地震がありました。
福島沖が震源地で、仙台市で震度3。私が仙台に住んでいた頃も小さな地震がよくありましたが、大ホールでの地震は初めてで、思わず高い天井を見上げて固まってしまいました。
講演されていた方が、「このような地震は、震災後頻繁にありました。」といわれ、改めて地震のこわさを感じました。
2.被災地バスツアー
報告会は12月15日(土曜日)の午後開かれましたが、その前日の14日(金曜日)の午後と、次の日の16日(日曜日)には、バスで被災地を巡るツアーが行われました。詳しい内容は、宮城会の鈴木会長がブログに報告されています。
次の写真は、私が16日の日曜日の朝熊本へ帰るために空港に向かう途中、仙台駅で偶然見かけた出発前の皆さんの姿です。
計250名余りの会員の方が参加されたそうですが、みなさんいい体験をされたのではないかと思います。
私はこのツアーには参加しませんでしたが、後でツアーに参加された方に話をお聞きしたところ、地震による地滑りで道路や区画がずれてしまった場所や、海岸近くの津波で流された場所を見てきたとのことでした。
地滑りで境界が変わってしまったところを今後どうするかという話は、土地家屋調査士として関心の高い部分です。
ただその方は、津波の被害に遭った場所は今は瓦礫が取り除かれ、何も知らないで行くと、もともとなにも無かったところだと錯覚するのではないかと話されていました。たぶん、そのとおりでしょう。
話は少し脱線しますが、仙台に着いた13日の夜、「SENDAI光のページェント」が開催されている定禅寺通を歩いた後、
初めての地下鉄に乗って仙台駅まで行き、近くの店で名物の牛タンを食べて満足した私は、宿泊するアークホテルまで青葉通りを歩いて帰りました。
北風が強く吹く、とても寒い夜でした。
その途中、鈴木会長もブログで紹介されていたあゆみブックス仙台一番町店が目にとまり、本好きの私は入ってみました。そうしたら、次の本が正面の台に平積みで置かれているのが目に入りました。
翌日の14日に石巻市と南三陸町を訪れる予定だった私は、この本を早速購入し、ホテルに帰ってから見てみました。もちろん、ビールを片手に。
津波の被害の凄まじさは、震災が来る前の平穏だったときの街並みと、津波の被害を受けた後の街並みを比較するとよくわかります。
津波の前と後、唖然とするほどの違いでした。
3.被災地へ その1
(1) 石巻市の釜谷地区
どうしても、この足で赴き、この手で線香をあげたくて、一度申し込んだ14日の午後の被災地バスツアーをキャンセルし、私はレンタカーを借りて、朝から石巻市の釜谷地区と南三陸町へ向かいました。
行きたいという気持ちの中には、「調査士として現地を見たい。」という気持ちは何もありませんでした。とにかく、行ってこの目で見たいという単純な気持ちだけでした。約400名集まった仲間の中で、こういう調査士もいていいのではないかと自分にも言い聞かせて、車を走らせました。
三陸自動車道を飛ばし、河北インターを下りてすぐにある道の駅でトイレ下車。このあたりは津波の被害はなく、熊本にもよくある普通の道の駅の風景です。
ここからは、北上川沿いに東へ向かって走ります。普段は穏やかな川の流れです。
右側に新しい道路ができていますが、今走っている道路と付け替えるのでしょうか。
しばらく走ると、遠くに新北上大橋が見えてきました。道路の右手は以前集落があったところですが、
ここも津波の被害を受け、今はこのような景色に変わっています。
最初は何のための土盛りかと思いましたが、みな土地のかさ上げをしているのですね。やはり、津波で大きな被害をうけても、元の場所で生活をされたいのでしょう。
仙台市を出発してから約2時間、やっと新北上大橋の袂までやってきました。
ここが石巻市の釜谷地区の入り口です。
画像をクリック
(画像は、Google の「未来へのキオク」からダウンロードしたものです。以下同じ。)
釜谷地区には、児童と先生84名が亡くなりまた行方不明となった大川小学校があります。
この報告会に参加する前までは、あぁそういった小学校があったなぁという程度の知識だったのですが、仙台に来る前に図書館で見つけた本の中に、偶然この小学校のことをルポしたものがあり、これを読んでどうしても行きたくなりました。
ご遺族の中には、この地に来て無惨に残った校舎を見て回って帰って行く観光客を快く思われていない方もいらっしゃるとのことで、そのお気持ちも考えて行きました。
この日は、海からの風が強く吹いていました。
そのため、私は持ってきた線香に火を点けることができませんでした。
せっかく熊本から持ってきた線香があげられずに、私は鬱々とした気持ちで校舎の周りを巡りました。
小学校を囲むようにしてあった街並みは、何も残っていません。
児童らが一次避難をした校庭に立ってみました。
周りを見回すと、何故児童と先生たちはすぐ裏の山に逃げなかったのか不思議でした。
他の或る小学校では、子供が山に向かって一目散に逃げ出せば、大人も何事だと思って一緒に山に向かうと考え、児童に津波が来たらとにかく山に逃げろと避難訓練をされていたところもあるそうです。
小学校を一巡りして正面に戻ってきたところ、黒装束をまとった集団が何かをやっていました。
近づいてみたところ、それはお坊さんの集団で、法要が始まろうとしていました。
私は、線香が上げられないならせめて一緒に供養できたらと思い、勝手に参列しました。遺族の方と思われる数人の方々(お母さんたち?)も参列されていました。
偉いお坊さんと思われる方のお経は10分くらい続いたでしょうか。
そのあと、お坊さんたちが全員でお経を唱え始めました。そうしたら、法要を取り仕切っていた一人のお坊さんが一番近くにいた私の方へ来られて、どうぞ焼香をしてやってくださいと促され、他の参列者の方々にも声を掛けて回られました。
私たちは、お経を上げられているお坊さんたちの間を通り、正面へ出て順番に焼香をしました。その後お坊さんたちも全員一人ずつ焼香をされ、法要は終わりました。
法要が済んでからわかったことでしたが、そのお坊さんたちは曹洞宗の方々でした。
バスで各地を回られているようで、終わってから記念撮影をされていました。
私は、くまモンのぬいぐるみをお供えし、この地を後にしました。
線香を上げられないまま帰るのかと落胆していた私にとって、何とも不思議な、ありがたい体験でした。
(2) 釜谷地区から南三陸町へ
もう一カ所、どうしても行きたかったところが南三陸町でした。
3月11日の大震災から5ヶ月位経ったある日、南三陸町の調査士の方から一通のメールをいただきました。
その方は、自宅と事務所を津波で流され、やっと事務所を再開されたとのこと。オンライン申請のセッティングに関するご質問のメールだったのですが、このメールをいただいたときから、南三陸町という地名が頭から離れませんでした。
事務所を再開されたとのことでしたので、私はてっきり元の場所に事務所があるものと思い、できればお会いしたいと思って南三陸町へ車を走らせました。
釜谷地区を発ち、修復された新北上大橋を渡ると、
南三陸町まではほぼ海岸線沿いに道路が走っています。
海岸線に近い所では、今も津波の被害を受けた建物が手つかずの状態で残っています。
「原発いらない」というプレートを貼った車も走っていました。
このあたりは、東北電力女川原子力発電所から10km位しか離れていないところです。
(3) 南三陸町
40分ほど走って南三陸町に入った私は、まず防災対策庁舎に立ち寄りました。
お参りをされているお二人のご婦人と少しお話しをしましたが、お一人は北海道から来られたそうです。
そのあと、私にメールをくださった方の事務所に向かいました。
しかし、その場所にはご自宅と思われるコンクリートの基礎と、事務所と思われるコンクリートの基礎だけが残っているだけで、事務所はありませんでした。
実際に南三陸町に来てみて、自分の想像がなんと見当違いだったことかを思い知らされました。
この地には、ほとんどまだ何もありません。
至る所、鉄骨むき出しの建物の残骸と、
被災した建物が取り壊された後のコンクリートの瓦礫だらけです。
何もないこの地に事務所があるわけがないのです。
また、地震による地盤沈下のせいでしょうか。
海面が地表すれすれまで迫っていて、高潮のときは水没する場所もあるそうです。
ただ、復興の兆しはあります。
遅めの昼食をとるために立ち寄った「南三陸さんさん商店街」では、
クリスマスツリーの飾り付けの真っ最中でした。
少しだけ、ホッとしました。
少しずつでしょうが、南三陸町の方々は復興に向かって歩みつつあります。
南三陸町を後にした私は、内陸部を通り再び三陸自動車道を走って、仙台に戻りました。
4.青葉山ドライブ
仙台に戻った私は、予定した時間よりも早く着いたので、明日報告会が開かれる国際交流センターから青葉山方面をドライブすることにしました。
なお、この部分は報告会の報告とは全く無関係ですが、よかったらしばらくお付き合いください。
そんな暇はないとおっしゃる方は、 ここをクリック してください。
@広瀬川の大橋から青葉山を見る。
青葉山の入り口です。
A国際交流センター前を通過。
ここで、明日15日に報告会が開催されます。
B東北大学川内キャンパス前。
このあたりから青葉山に登って行きます。
C東北大学工学部青葉山キャンパスの入り口。
右折して、そのままキャンパスを通り抜けます。
D宮城教育大学前。
E東北工業大学青葉山グラウンド。
青葉山の一番奥にある青葉台のバス停から少し奥に入ったところにあります。
F同グラウンドから見た夕暮れの太白山。
仙台にいた頃、私はこの山をオッパイ山と呼んでいました。
合ハイで、この山の頂までハイキングをしたことが思い出されます。当時は心身共に健全でした。
G同グラウンド脇にあった基準点。
報告会の中で山野目先生もおっしゃっていましたが、基準点や境界標を気にしながら下を向いて歩く癖?職業病?は健在です。
「青葉山●道中心」(●は不明)と刻印されています。
H再び、東北大学工学部青葉山キャンパス。
青葉山を一通り巡った私はレンタカーを返し、開催前懇親会に出るために仙台駅裏へと向かいました。
5.被災地へ その2
仙台空港周辺
いよいよ仙台にお別れをする16日の日曜日の朝、帰りの飛行機まで1時間ほど時間がありましたので、空港から海岸近くまで歩いてみました。
周りを見渡しても、ほとんど何も残っていません。
震災前の様子を Google の地図で見ると、確かに建物が点在しています。
しかし、ここに残っているは、
少し高い場所にある下増田神社と、
1階部分が無惨にも壊され、しかし2階はきれいな建物だけでした。
この建物は、職権による滅失登記の対象になるのでしょうか。
この建物のすぐそばにある、家が流され更地になった庭の一角で、ミニチュアのスポーツカーを見つけました。
地震が起き、津波が来る直前まで、幸せな生活があったのでしょう。
海岸近くまで行くと、
防潮林の松がまばらに残っています。
帰り道に見た奥羽山脈の山々には雪が積もっていました。
とにかく風が強くて、踏ん張って進まないと後戻りしそうな風でした。
飛行機で飛び立つ前に、展望台から滑走路を眺めました。
この景色は、去年(平成23年)3月11日金曜日の午後、事務所のテレビで見た景色です。
この滑走路を、ゆっくりと津波が押し寄せてくる映像(津波の映像です。見たくない方はクリックしないでください。)は、今も鮮明に覚えています。
これらの光景を目に焼き付け、私は仙台空港を後にしました。
仙台は、学生のとき5年間を過ごした、私にとって第2のふるさとです。
37年ぶりに訪れた仙台は、懐かしく、風が強く、とても寒かった。
しかし、心の中に何か熱いものをいただいて、帰りの飛行機に乗りました。
鈴木会長も報告会や懇親会でのご挨拶の中で何度もでおっしゃっていましたが、全国の土地家屋調査士の絆を強く感じることのできた報告会でした。
今私は、今回この報告会を企画された岩手県、宮城県、福島県の3つの土地家屋調査士会の方々に深く感謝をしています。
たぶん、この企画がなかったら、再び仙台を訪れるチャンスは無かったと思います。
三会の役員の方々と会員のみなさん、本当にありがとうございました。
そして、負けないでください。